Masuk『実は、私には娘がいるの』
今朝、羽鳥紗苗――改め、橙原紗苗さんは僕にそう告げた。
彼女は一ヶ月前に、父さんと再婚して我が家にやっていた僕の義母に当たる人だ。
彼女についての簡単な情報は聞いていたけど、込み入った話はしていなかった。
つまり、僕は紗苗さんのことを受け入れてはいるけれど、実のところ詳しいことはほとんど知らないままなのだ。
これまでどういう生活をしていたのか、父さんのようにバツ持ちなのか、であれば子供はいるのか、上げればキリがないくらいには、闇に包まれたままだった。
その中でも、そこそこ重要そうな事実が、今朝ついに露見したわけだ。
『あのね、身勝手なお願いなのは分かっているんだけど、もし郁人君が許してくれるなら、娘もこの家に迎え入れたいと思っていて……』
紗苗さんはそうも言っていた。
反応からして、父さんはすでに話を聞いて受け入れていたのだろう。あとは僕の答えだけだったようだ。
男手一つで、僕をここまで育ててくれた父さんには幸せになってほしいと、心から思っている。
だから再婚についても躊躇いなく受け入れたし、祝福もした。
つまり、その時の返事も決まっていたわけで、僕は悩む素振りすら見せずに『いいんじゃないですか。そうなれば、また賑やかになりますね』と答えた。
そして、今。
「し、白鷺?」
目の前にいたのは白鷺有紗。
我が校屈指の美少女、氷姫と呼ばれるクラスメイトだ。
「……橙原くん」
ここに彼女がいることに対する戸惑いと同時に、僕が認知されていたことへの驚きと喜びがこみ上げてくる。落ち着け、僕。今はそれどころじゃない。
今朝の話と、現在の状況。
二つを照らし合わせれば、導き出される結論は一つだ……。
「あのね、郁人君。この子が今朝話した私の娘なの。ほら、有紗」
「と、橙原くんはクラスメイトだよ。自己紹介なんて……」
きれいな銀髪だ、と場違いなことを思ってしまう。脳が理解を諦めたのかもしれない。
顔を少し動かすと、ゆらゆらとつられるように動く長い髪。
僕を捉える碧眼は、不安と緊張で揺れている。
雪のように白い肌のせいか、頬のわずかな紅潮もしっかりと目立っていた。
「そうじゃないでしょ。これから家族になるんだから、そういうことはしっかりしないとダメ」
「……うん」
何というか、教室で見る彼女とはまた印象が違っていた。
誰も近づけさせない冷たい雰囲気を纏った彼女は、まるで映画の中にいる囚われの姫のようだった。
けど、目の前にいる白鷺は、どこにでもいる普通の女の子のように思えて。まあ、容姿がレベチだから普通の女の子というと語弊があるけど。
「……あの」
僕の目の前までやってきた彼女が僕を見上げる。
身長的には、僕の肩より少し上くらいなので、目を見ようとすると必然的に上目遣いになる。
ふわりと甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。なんの匂いかは分からないけど、すごく心地良い。
「は、はい」
「白鷺有紗、です。今日からお世話に、なります」
言ってから、すっと視線を逸らした彼女はぺこりと頭を下げた。
綺麗な所作だ。気品があるとでも言うべきか、僕が礼儀作法の講師であれば満点評価を与えてしまうだろう。
思わず見惚れてしまうくらいに、彼女は美しかった。
「あ、えっと、うん。僕は橙原郁人、です。よろしく」
しかしというか、なんというか。
白鷺有紗が僕の義妹……か義姉かは分からないけど、それについてはまあいい。
そういうことだというのであれば、それはもう受け入れる所存ではあるのだけれど。
引っかかるのは、目の前にいる彼女と教室で見かける彼女が、どうしても重ならないことである。
*
「けどあれだな、あんな美少女と一つ屋根の下というのは、さすがに緊張するな」
頭の整理がしたくて着替えてくると無理やり自室に避難した僕は、シャツを脱ぎながら呟く。
これから家族になる、ということは頭では分かっているけど、受け入れるつもりでもあるけど、だからといってその瞬間に家族として認識できるわけではないわけで。
ラノベなんかではたまに見かける設定ではあるし、創作として見る分には面白い設定だとは思うけど。
実際に自分の身に起こると、これが存外大変である。
どうして主人公たちはこの状況をすんなりと受け入れられるのだろう。あ、創作だからか。
「これならまだ、小学生の女の子とかの方が良かったのかもな」
もちろんロリコン的な意味ではなくて。
だって、小学生の女の子はみんなピュアキュア大好きだろ? ピュアブラックとピュアホワイトどっちが可愛いか議論すればいいわけだろ?
そんなの余裕だぜ。
「……ごめんなさい、小学生の女の子じゃなくて」
「ほぅわッ!?」
うらめしや〜、みたいな声量で、ぼそりと背後で呟かれて、僕は出したことのない奇声を上げて振り返る。
ドアから顔を覗かせた白鷺が、申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
「……いや、えっと、高校生もいいと思うよ」
「……そうですか」
我ながら混乱しすぎてわけの分からないことを言ってしまったけど、今の発言をそうですかで流してしまうのも、それはそれでどうなんですかね白鷺さん。
*
気まずそうに白鷺が視線を泳がせた。
そういえば彼女は今日、学校を休んでいた。先生は風邪だと言っていたけれど、目の前にいる白鷺は、とてもそうは見えない。
登校はしていないのに、何故か彼女は制服なことが気になった。ブレザーは脱いでいてシャツとスカートの状態だけど。
「あの、服を着てくれますか……?」
「え、あ……」
しまった。
半裸だった。
僕は慌ててクローゼットから適当にシャツを取り出す。それがたまたまアニメの女の子が描かれたシャツだったけど、この際気にしていられない。
「ご、ごめん。どうせ見られるならもうちょっと筋肉つけておけば良かったかな。はは」
照れ隠しでもないけど、僕は適当なジョークで気まずさを拭おうとしてみる。
すると。
「い、いえ……ちょうど良かったです」
と、彼女は反応した。
「そっか。それで、その、どうかした?」
「少し、二人で話がしたいと思いまして」
「話?」
……ちょうど良かったです?
ちょっと待って、ちょうど良かったですっていう反応なに? テンパっててスルーしちゃったけど、僕の体型別にちょうど良くないぞ?
さては白鷺もテンパってるな?
「はい。お母さんと雅人さんには断りを入れてきました」
「……そ、そう。じゃあ、小汚い部屋だけど、どうぞ」
「はい」
入ってきた白鷺がドアを閉める。
ところなさげに部屋の中を見渡していたので、僕は勉強机のイスを差し出した。
変なところはないよな?
僕の部屋は、これまた自分で言うのもなんなんだけど、普通の男子高校生の部屋をイメージしたときに思い浮かぶようなありきたりなものだと思う。
水着の女の子二人が抱き合うちょっぴりエッチなタペストリーがあるけどあれはまあギリギリセーフだろう。ギリギリセーフだけど、あとで片付けよう。
「一つ、訊いていいかな」
あちらにも確認したいことがあるのかもしれないけど、一応念のために、どうしてもハッキリさせておきたいことがあった。
「なんですか?」
僕の確認に、白鷺はこちらに視線を向けた。じいっと見つめられると、僕としては照れてしまい冷静でいられなくなるから適度に視線を散らしてほしい。
「君は僕と同じクラスの、白鷺有紗さんなんだよね?」
「そうですよ」
こくり、と頷いた白鷺は、自嘲するように口角を上げた。
「……橙原くんの言いたいことは分かります。いつもの氷姫じゃないって言いたいんですよね」
「えっと」
氷姫と呼ばれているのは把握しているのか。氷姫はどちらかというと悪口だし、本人に届かないように話せよと思う。いや、そもそも呼ぶこと自体良くないんだけど。
「あれは、いろいろありまして私には必要なことだったんです。だから、助けてくれた橙原くんにも、あんな失礼な態度を取ってしまいました」
「……失礼な態度って、文化祭の?」
僕と白鷺にある接点はそれが唯一だ。
それ以外の関わりは本当に全くないので、これは間違いないはず。
「はい……」
白鷺は顔を伏せた。
長いまつ毛がふと見える。こんなときでさえ、可愛いなとか思ってしまうのだから僕は相当重症だ。
どうやら本当に彼女は氷姫と同一人物らしく、その氷姫というキャラクターは何かしらの事情によって必要な振る舞いだったようだ。
「それで、その、事情というのが……」
話しづらいのか、その続きが中々出てこず、沈黙が起こる。
紗苗さんが再婚しているわけだから、彼女は親の離婚を経験していることになる。
それに、少なくとも母親でない誰か、恐らくは父親だろうけど、そちらに引き取られていた彼女が、
これが、何かしらの事情がないはずないし、話しづらいことなのも理解できる。
そう考え至った僕は、ゆっくりと息を吐いた。
「別に、無理に話さなくていいよ」
「……え」
僕が言うと、彼女は驚いて顔を上げる。表情には戸惑いが見えた。
もしかしたら、それなりの覚悟でその事情とやらを話に来たのかもしれない。
けど。
「話しづらいことなら、今じゃなくてもいいよ。これから一緒に暮らしていくわけなんだし、時間はいくらでもある。話そうと思ったときに話してくれたらいいよ。僕はそれまで待つし」
何事もタイミングはある。
それは状況的なものだったり、あるいは精神的なものだったり。後者であるならば、僕が待てばいいだけのことだ。
「……ありがとうございます」
「これからは、
氷姫が何かしらの事情で塗り固められた仮の姿なのだとしたら、それが取り払われたのが素の姿だと言える。
「そう、ですね。そうだと思います」
「同い年でいきなり同居っていろいろ大変だと思うけどさ、そこはお互いに話し合いながら上手くやろう」
「はい」
不安な表情は拭いきれない彼女だけれど、「……でも」と少しだけ気持ちを緩めるような声色で続けた。
「ここにいるのが、橙原くんで良かったです」
小さく笑う白鷺。
頬は火照ったような赤みを帯びている。
「それは、どうして?」
「優しい人だって知ってましたから」
「……そっか」
真正面からそう言われると、さすがの僕も照れずにはいられなくて、そっぽ向くように短く言って、背中を向けた。
「僕、下も着替えてから行くから、先にリビングに戻っててくれ」
「あ、はい。ごめんなさい、お着替えの邪魔をしてしまって」
申し訳なさそうに言った彼女はギイとドアを開く。しかし、そこから立ち去る気配はなく、立ち止まったままだ。
「あの、改めてになるんですけど」
「はい?」
振り返ると、ぴんと背筋を伸ばして両手を前で重ねた彼女が、真剣な表情で僕を見ていた。
かと思えば、ゆっくりと頭を下げてお辞儀をする。
「文化祭のときのこと、本当にありがとうございました。助かりましたし、すごく嬉しかったです。なのに、あんな態度を取ってしまってごめんなさい」
きっと、良い子なんだろうなと思った。
文化祭なんて半年前のことだし、わざわざ話題にしなければ気にもしなかったことだから。
けど彼女は、あの日のことを気にしていたのかもしれない。だとすると、すごく優しい女の子だろ。
「顔を上げてよ。あんまりそういうふうに言われるの慣れてないから、どう反応していいか分かんないんだ」
「……そうなんですね」
顔を上げたとき、そこにいたのは氷姫なんていう冷たいクールビューティではなかった。
どこにでもいるような普通の女の子だと、少なくとも僕はそう思った。
*
あれから、四人で食事をした。
家族が一人増えた記念日だということで、父さんが寿司を頼んで、豪華な夕食となった。
父さんと紗苗さんはお酒を飲み、ダラダラと喋り始めたので僕は自分の部屋に戻ることにして、今に至る。
酔っ払いながらだけど、紗苗さんと話す父さんは本当に楽しそうで、その姿を見ていると再婚して良かったんだろうなと思う。
「ああー、お腹いっぱいだ」
ベッドに倒れ込んで天井を見上げる。
ちらとタペストリーを見て、片付けないとなと思いつつ、体が重たいので後回しにしてしまう。
「なんか、大変なことになったな」
当然ながらぽつりと呟いた言葉に返事はなく、その代わりにドアがノックされた。
僕は体を起こして応答する。ガチャリとドアを開けて入ってきたのは、もちろん白鷺だ。
「あの、ちょっといいですか?」
「うん。どうかした?」
「お風呂なんですけど」
「ああ、沸かさないとだな。今日はいろいろあってすっかり忘れてたよ」
これまでの橙原家では家事全般は僕が担当していた。
父さんは仕事に出て大変だろうから、せめて少しでも助けになればと小学生のときから続けてきたことで、今でもそれは変わらない。
紗苗さんも昼は仕事で大変だろうからと、再婚してからも基本的には僕が担当している。
まあ、全部任せっきりにはさせられないと言って、紗苗さんが先に済ませてくれることもあるんだけど。
彼女なりの気遣いだろうから、そういうときは素直に甘えている。
けど、今は二人とも酔っ払ってそれどころじゃないだろうから、僕がするしかない。
「あの、私がします」
「え?」
「だから、お風呂を沸かすの、私がやります。それを伝えに来たんです」
「そ、そう? まあ、やってくれるのならお願いするけど」
この家でお世話になるし、せめてできることはやろうという気持ちなのかな。
無理することはないと思うけど、それで気が紛れるのならば思う存分準備してくれればいいと思う。
だとして、どうしてわざわざお風呂の準備します宣言をしに来たのかは謎だ。なにかを求められてる? 無理だよ、ちょっと問題難しすぎますね。
「あの、それで……」
「ん?」
何か言いたげにもじもじしている白鷺。
しかし、僕が首を傾げると暗い顔を見せて、「なんでもないです」とだけ言って部屋を出ていった。
「……何だったんだ?」
腕を組んで唸った僕だったけど、その答えを知るのはそう遠くはなかった。具体的な時間を述べると、それは白鷺が部屋を出ていった十分後のことだった。
*
トイレを済ませたあと、たまたま脱衣所の前を通りかかったタイミングで「ひゃう」という可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「白鷺!?」
さすがに無視はできず、僕は脱衣所に入り、そのままお風呂場のドアを開けて中にいた白鷺の状態を確認する。
と。
「……ぅぅ」
小さな悲鳴を漏らしていた。
髪からつま先まで、びっしょりと濡れている。シャワーから水が出ていることから、それを頭から被ったんだろうなというのが予想できる。
「だ、だいじょ――ブ!?」
頭から水を浴びたということは、もちろん体も濡れているわけで、彼女の着ていた制服のシャツが水に濡れて体に張り付いていた。
くっきりと浮き出る水色の下着が視界に入り、僕は思わず吹き出してしまう。
慌てて視線を逸らしたけど時すでに遅く、僕の脳裏にはしっかりとハッキリと下着姿が記憶されていた。あの一瞬で? とか思うかもしれないけど、思春期の脳内メモリ舐めないでくれ。
「なにやってるんだ!?」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、謝罪は求めてなくてですね」
言いながら、彼女に視線を向けないように注意しつつ、シャワーの水を止める。そして、脱衣所からタオルを取ってそれを白鷺に渡した。
「とりあえずそれで体拭きなよ。風邪引いちまう」
「……でも、お風呂掃除」
「今日は僕がやるから。ほら」
「……はい」
最後の言葉は覇気がなく、落ち込んでいるのが分かりやすく伝わってきた。
まあ、初日に頑張って失敗したわけだからな、落ち込むのも無理はない。あとで慰めたりした方がいいのかな。
白鷺が脱衣所に出たことを確認した僕は、湯船にお湯をかけてスポンジで洗い始める。
『そういえば、有紗ちゃんは誕生日はいつなんだい?』
食事のときに、父さんがふと訊いたことをなんとなく思い出す。
『十月の二十八日です』
『お、てことは郁人がお兄ちゃんなんだな。良かったな、可愛い妹ができて』
『それ、姉だったとしても同じこと言ってたろ』
僕の誕生日は六月。
そんなものは符号にしかならないけど、事実上は僕が兄で白鷺が妹ということになる。
妹のミスだと思えば、こんなのも可愛いもんだな。
と、僕は思うのだけれど彼女はそうでもないようで。
「……ご、ごめんなさい。迷惑、かけてしまって……」
くすん、くすん、と鼻を鳴らしながら涙混じりの声を漏らす白鷺。
そこまでかな!? と、思わず彼女を振り返ったけど、濡れたシャツを脱いで素肌をあらわにしていたので慌てて顔を背ける。
シャツ越しではない、肌色がしっかりと見えてしまう。それだけじゃないぞ、可愛らしい水色のブラもくっきりと見えた。
漫画やラノベの挿絵ではない、リアルガチの下着なんて初めて見た。消そうとしても、僕の脳が勝手にお気に入り登録して消去させてくれない。なんて厄介なんだ、この機能。
「別に迷惑とかは思ってないから、そんなに思い詰めるなよ」
下着姿を見てしまって心臓の音が激しくなっている。それを落ち着かせつつ、僕は白鷺に声をかけた。
「……ごめん、なさい……」
「これくらいで謝らないでく
れ。僕らはもう家族なんだからさ。家族っていうのは、助け合うもんだろ?」
「……」
言葉は返ってこなかった。
くすん、と鼻を鳴らす音は聞こえたけれど。
謝ってくることもなくなったので、きっと僕の言いたいことは伝わったんだと思う。
というか、そうであってくれ。
*
お風呂を上がると、あとは眠たくなるまでラノベや漫画を読むのが、僕のナイトルーティーンだというのはオシャレに言い過ぎかもしれないけど、夜の時間の過ごし方である。
ぺら、ぺら、と先日買った漫画を読んでいると、本日何度目かも忘れてしまったドアのノックが聞こえた。
「はい」
父さんと二人だったときはほとんど聞くことのなかった音で、自分の生活が変わり始めているのだということをひしひしと実感する。
「失礼します」
案の定というか、予想通り、訪問者は白鷺である。
どうやらお風呂上がりのようで、白い肌が紅潮している。
髪はドライヤーで乾かしたようでさらさらふわふわと揺れていて、シャンプーの良い香りがふわりと漂ってくる。
服装は大きめのシャツにドルフィンパンツ。健全な男子高校生たるこの僕には、どうにも刺激の強い格好だ。
「どうかした?」
僕としてはキャパを超えつつあるので、今日のところはもうゆっくりしたいところだったけれど、深刻そうな白鷺を見るとそうとも言えずに尋ねる。
すると、彼女は目を伏せ、そのまま「お風呂掃除のときはごめんなさい」と聞き飽きた謝罪をしてきたものだから、さすがの僕もうんざりして溜息が出てしまう。
「謝るのはもういいって言ったろ。あんまり謝罪を安くしないほうがいいぞ」
「……はい」
そう凹まれると、こっちが悪いことをしているような気分になるんだよな。
別に責めるつもりはないんだけど、上手く伝わらなくて、煩わしさを覚えた僕は頭を掻いた。
「えっと、訪問の要件は謝罪?」
確認すると、彼女はふるふると首を横に振った。どうやら違うらしい。
「……少しだけ、お話をしてもいいですか?」
「まあ、少しなら」
ありがとうございます、と言ってから少しだけ沈黙を作る。
何か言ったほうがいいのか悩んだけど、ここは彼女が話し始めるのを待つことにした。
「……橙原くんは白鷺グループをご存知ですか?」
十秒ほどの沈黙を、ようやく白鷺が破る。話し始めた彼女の声色は、どこか重苦しいものだった。
「さすがにね」
よっぽどの世間知らずでなければ、これくらいの年齢になると一度くらいは聞いたことがある大企業だ。
いろんな事業展開をしているらしいけど、中でも有名なのはホテルかな。これもふわっとした情報なんだけど。
「白鷺は、そこの娘さんなんだよな?」
「はい。正確には、
「たしかに」
なんだか、難しい話が始まる気がするな。
ここは気合い入れて向き合うか。多分、僕にとっても、彼女にとっても、大事なことだろうから。
「私は白鷺家に生まれて、そこで何不自由なく育てられました。恐らく、同世代の人たちと比べても裕福な家庭だったと思います」
「……そうだろうね」
自慢じゃない、と思う。
そうにしてはあまりにも表情が曇りすぎている。本来であれば喜ぶべき裕福という点を、まるで真逆に捉えているようだ。
「私が何をするまでもなく、付き人が全てお世話をしてくれる。そんな毎日で、私もそれに疑問は抱いていなくて……だから、こうして白鷺家を出た今、なにもできなくて……」
白鷺は肩を震わせながら、悔しそうに声を絞り出した。
僕はそこまで言われて、ようやく彼女の言わんとしていることを理解した。
裕福な家庭に生まれて、望めば全てが手に入る、何不自由なく暮らす生活は誰もが憧れるものだろう。
僕だってそうだ。
際立って貧乏ではないけれど、お金持ちに比べれば裕福とも言えない生活だった。それでも父さんが頑張ってくれたから、不自由は何一つとしてなかったけど。
お金があれば、いろんなものが違っていたと思う。それは良くも悪くも、という意味でだ。
だから、今の自分にもこれまでの人生にも後悔はない。けど、お金持ちを羨む気持ちは少なからずあったのも事実。
けど、お嬢様にはお嬢様の悩みというか、コンプレックスはあるようだ。
白鷺は、お風呂掃除一つまともにこなせない自分がたまらなく悔しいのだろう。
そうすると、気になるのは
僕は出かけた言葉を飲み込んで、別の言葉を腹の奥から吐き出す。
「それは仕方ないよ、それが白鷺の生きてきた道なんだからさ。別に恥ずかしがることもない」
「……ですが、橙原くんはできています」
「それは僕がたまたま、そういう環境に立ったからってだけで」
母さんが生きていれば、それはもうさぞかし自堕落な生活を送っていたに違いない。
するとどうだ、家事はもちろん料理だって、なにもできない高校生が誕生していたことでしょう。
「もし、できるようになりたいって白鷺が思っているんなら、これから頑張ればいいよ。だってもうさ、君は白鷺有紗じゃなくて、橙原有紗なんだから。人は変わろうと思えば、いくらだって変われるさ」
この家に来たということは、つまりそういうことなのだ。
生まれ変わったなんて言い方は大袈裟かもしれないけど。
「あ、いや、別に白鷺の名前を捨てろとかじゃなくてな、ものの例えというかさ」
ハッとしてフォローすると、白鷺はくすりと笑う。どうやら、僕の気持ちは汲み取ってくれたようだ。
「そう、ですね。私は今日から橙原有紗なんですよね」
「そ、そうだよ。だから、これからだよ。きっと、いろんなことが待ってるって」
「……ありがとうございます。少し、元気が出ました」
彼女が氷姫と呼ばれていたことなんて、今日一日だけですっかり忘れそうになる。
今見せた笑顔だって、そこには温度がこもっていて、温かい。
「話を聞いてくれてありがとうございました」
言いながら立ち上がった白鷺は、満足そうな顔で部屋から出ていこうとする。
ドアノブに手をかけたところで、こちらを振り返った彼女は、可愛らしく笑っていて。
「これからよろしくお願いします」
「え、あ、ああ。よろしく、白鷺」
僕がそう言うと、今度は恥ずかしそうな表情を見せる。
「私はもう白鷺有紗ではないですよ。義理ではありますが兄妹なんですから、これからは有紗って呼んでください。郁人くん」
「……え、えぇー」
なにそれ可愛いかよ。
僕はさささっと部屋から出ていった彼女を見送りながら、そんなことを思った。
――これは一人の少年と、一人の少女の物語だ。「おはようございます、郁人くん!」「……おはよう」 ゴールデンウィークが明け、今日からまた学校に行く日々が始まる。 ゆさゆさと体を揺すられ、うっすらと目を開けると、すでに制服に着替えている有紗が視界の中に現れた。 夢かな、と思った。 どうしてあの氷姫が僕を起こすんだ、みたいな。 けど、次の瞬間には脳が仕事を始めて目が覚めていく。すぐに彼女が、僕の義理の妹であることを思い出す。「もう朝ですよ」「……七時だけどね」 時計を見やれば、七時を回った頃。 朝は紗苗さんがご飯を作ってくれるので、僕は少々ゆっくりするというのが最近の流れなんだけど。 それを有紗が知らないということもないだろうに。「まだ起きるには早くない?」「そうですかね。せっかくですし起きましょう。そして、一緒にご飯を食べましょう」「……まあ、いいけど」 ここまで会話すれば二度寝する気にもならない。 僕はぐしぐしと目をこすってベッドから立ち上がる。「着替えるから先に行ってて」「わかりました」 ててて、と部屋を出ていく有紗の後ろ姿をぼけーっと見届けつつ、制服に着替えていく。 有紗がこの家に来たのは、春休みのすこし前だったか。ということは、あれからもう三ヶ月が
『あなたの幸せは、あなたが決めるの』 お母さんは私にそう言った。 だからこそ、自分の気持ちに正直になって私は白鷺家を出た。 あそこで自分が幸せになる未来が見えなかったから。 そうして、橙原家に来た私は……うん、幸せだ。 大好きなお母さんがいて。 優しい雅人さんがいて。 学校でお友達はできていないけれど。 涼花さんというお友達はできた。 そして、郁人くんが隣にいてくれる。 これを幸せと言わずして、ならばなにが幸せだと言うのだろう。「……はぁ」 ゴールデンウィーク最終日。 私はリビングでだらしなく寝転がっていた。することがないのだから仕方がない。 朝のうちにお風呂掃除も、お部屋の掃除も、できることはやった。けどお昼を過ぎた頃にはもう全部終わってしまった。 郁人くんのお部屋で漫画を読んでも、なかなかずっとは続かない。 お母さんと雅人さんはお仕事。 郁人くんはアルバイト。 郁人くんのバイト先に突然現れて驚かせちゃおうか、なんて考えは最初からなかった。 なんというか、今は彼の顔を直視できない。 嫌いということはもちろんない。 むしろ……。 だからこそ、みたいな。 先日、郁人くんとお出掛けをしたときに九山さんという方と遭遇した。 私が白鷺家を出る理由とも大
「……」 すごく悲しい夢を見たような気がする。 ふと目が覚めた私は、時計で時刻を確認した。まだ全然夜中で、もう一度寝ることができるんだけど、どうにもその気になれなかった。 体を起こして、カーテンの隙間から外の景色へと視線を向ける。空は暗くて、点々と星がまたたいていた。 新学期に入って、しんどい思いが続いたこともあって、もしかすると疲れていたのかもしれない。 だから、あんな夢を見たのかな。「……お水、飲んでこようかな」 少し落ち着けば、また眠れると思う。 私はベッドから出て、キッチンへと向かうことにした。 夜の家の中は暗くて静かだ。 子供の頃はこの雰囲気がどうにも怖くて、トイレに行くのにもお母さんを起こしていたんだっけ。 何時に起こしても、お母さんは嫌な顔一つせずについてきてくれた。 眠れない日には、ホットミルクを入れてくれたこともあった。 そういう、ささやかだけど大切な思い出があったから、私はそれからも頑張れたんだ。 そして、今はそういう日常が続いている。 私自身もそうなんだけど、雅人さんと一緒にいるお母さんが本当に幸せそうで。 橙原家に救われたんだというのがひしひしと伝わってきて。見ているだけで、心がぽかぽかする。 お母さんはきっと、雅人さんに救われた。 私は多分、郁人くんに……。「あれ、有紗?」 リビングに行くと、どうい
ゴールデンウィーク。 バイトの予定もなく、父さんや紗苗さんも仕事に出た日は、朝にすることもないのでせっかくなので昼まで寝るということは以前までもあった。「……」 スマホで時間を確認すれば、時刻は現在午前十一時半。それはもうしっかり惰眠を貪っての起床だった。 こんな日はアラームなんてもちろんかけていない。 十二分に寝たので自然に目が覚めたというのもあるけど、物音がしたというか、気配を感じたというか、そんな感覚に襲われて目を覚ましたというのが、今の僕的には最も近い感覚なんだけど。「あ、郁人くん。おはようございます」 なぜか、僕の部屋に有紗がいる。「……おはよう。何してるの」 まだ寝ぼけている頭で必死に状況理解に務めるが、全然なにも分からない。 僕が寝るベッドに背中を預けるようにしていた有紗が、手に持っていた漫画を見せてくる。「漫画を読んでいます」「……はぁ、そう」 まあ、ゴールデンウィークだしな。 残念なことに友達がおらず、アルバイトだなんだといった予定のない有紗は、この休みをこの上なく持て余している。 それはこの数日でひしひしと感じていた。 有紗は寂しがりやなのか、あまり自分の部屋にこもることをしない。リビングにいるか、両親が家を出ているときに僕が部屋に戻るとついてくることもあるくらいだ。 そして昨日、リビングに寝転がって天井をぼーっと見つめていた彼女になにをしているのか訊ねてみたところ、『天井を見つめてるんです』と一瞬理解が追いつかない答えが返ってきた
白鷺家において、父親は絶対的な存在だった。 だから私も、もちろんお母さんもお父様には逆らえなかった。 厳しい教育が続いても、私は隣にお母さんがいてくれたから、毎日頑張ることができたんだ。 中学三年生のとき。 親友ができた。私にとって、彼女は特別な存在だった。 けれど、それもお父様にバレてしまい、不要とされて関係を絶たれた。 お母さんが白鷺家を追い出されたのは、そのあとのこと。 実のところ、私はその理由に心当たりがあった。『一つだけ、意見させてもらってもいいでしょうか』 自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていた私は、お父様の部屋の中から聞こえたお母さんの声に、足を止めた。『なんだ』『有紗と、有紗のお友達のことを許してあげてはくれませんか。あの子、友達の話をするとき、本当に楽しそうで……きっと、有紗にとってすごく大切な人なんです』 それは私の親友とのことを話しているのだと、すぐに分かった。 けれど、ここで私が入ったところで何がどうなるわけでもないということは分かっていて、だから、その場を動けないでいた。『……言いたいことはそれだけか?』 冷たいお父様の声がした。 表情を見ていなくても、どんな顔をしているのかは想像がつく。それくらい、私は何度もその声も顔も見てきた。&
私が新しいクラスの教室に到着したとき、中には誰もいなかった。 無理もありません。随分と早い時間に到着したのだから。 張り出されていた座席表を確認して、自分の席に腰を下ろす。 静かな教室の中、遠くの方からわいわいとはしゃぐ男の子の声が聞こえた。 クラス発表を見て、友達と盛り上がっているのかもしれない。 私は教室前方の入口を見た。 その扉を開く人はまだ現れない。 どうしようかな。 第一印象が大事だって言うし、とりあえず入ってきた人に挨拶をしようか。挨拶をされて嫌な人は、いないよね……? けど、もしも私のことを知っている人だったら。 謝って、友達になってほしいと素直に言えば、受け入れてくれるのかな。 そんなことを考えていると、ガラガラと教室のドアが開かれた。私はすぐにそちらに目を向ける。「……ぁ」 目が合ったけど、声が出なかった。 そこにいたのは女の子で。 私と目が合った次の瞬間には、不機嫌そうな顔になって顔を背けられてしまう。 朝だから、かな。 それとも……。 私は、きゅっと唇を噛んで立ち上がる。 黒板に張り出されている座席表を見ていた彼女が、自分の席へ行こうと改めてこちらを振り返ったタイミングで、私は「あの!」と勇気を振り絞った。 郁人くんに、良い報告がしたい。 彼は優しいから、きっと私のことを心配してくれているから、安心してもらいたい。「お、おは